JIBUNマガジン

2019年12月号 vol.53

面影橋をさまよった先に悲劇が・・・

2019年12月16日 11:17 by Takako-Oikawa

“面影橋”という橋がある。目白台から続く鎌倉街道とされる古い街道沿いにあり、神田川を跨いで豊島区と新宿区を結んでいる橋だ。面影、非常にノスタルジックな何かを感じる名前である。今風に言えばエモい。

しかし現物はノスタルジックな名前とは裏腹にただの鉄筋コンクリートの錆びれた橋である。いっそ“名称不明”とかの方が雰囲気があったと思う。本当に平均点で没個性な橋なのだ。期待を裏切るという意味では平均点以下か。

ところがこの橋は「面影橋」として都電荒川線の駅名に抜擢されるほどのネームバリューを持っている。平凡たる橋に不釣り合いな、駅名に使用されるほどのノスタルジックさ。いったい何の面影なのだろうか?

面影橋と姿見の橋

ネット情報によると、面影橋は“俤”(おもかけ)橋とも書き、江戸時代周辺に描かれた絵では木造の板橋であり、弓なりの立派な太鼓橋だったそうだ。川の向こうに広がる景色はそれはそれは美しいもので、東海道 53 次などでしられる歌川広重も面影橋の様子を絵にしている。ちなみに“俤”とは面影を一文字にまとめたもので、特に意味の違いはない。しかし雰囲気は落ちる。面影の字面を残した方に拍手を送りたい。

さて、この歌川広重が曲者であった。面影橋を“姿見の橋”として紹介しているのだ。姿見の橋については諸説あり、北側にある用水路にかかっていた橋が姿見の橋なのに広重が間違えたという説や、面影橋の別名という説、用水路の橋の方が面影橋だったという説が混在している。ややこしい。

今ある橋を面影橋として扱うことにする。元の名前が違ったって大した問題ではない。いつだって生き残った者が勝者なのだ。何の変哲もない橋がたくましく見えてきた。

諸説ある、面影の由来

面影橋の名前の由来について書いた石碑があった。記載されていたのは3つの伝説。

・在原業平が鏡のような水面に、姿を写した説

・逃げてしまった鷹狩の鷹をこの辺りで見つけた、将軍家光が名付けた説

・近くに住む和田靭負(ゆきえ)の娘であった於戸姫(おとひめ)が、数々の身に起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げたときに詠った和歌から名付けられた説

3 つもあると、どれも信じられなくなってしまう。2 説目なんて鷹が見つかっただけじゃないか、どこに面影の要素があるんだ……。於戸姫にも、なにがあったんだよ……。モニュメントに書かれているなら信用性がありそうと、期待に胸を膨らませていたのに……。

近くにもう一つ、石碑があった。「山吹の里伝説」。太田道連の和歌にまつわる伝説らしい。これ以上登場人物を増やさないでほしい。石碑によると、この伝説の地には諸説あるとのこと。いい加減にしてくれ。

中野⾧者と面影橋

新宿区歴史博物館を訪ねてみた。旧石器時代から平成まで、新宿区にまつわる歴史が展示されている。めざすは閲覧室。なんだか遠いところまで来てしまった感覚に陥ってしまう。結局信じられるのは自分の足と書物というわけか。

・橋の左右にあった池の水面がまるで鏡のようで、通行人が姿を映した。

・昔、雑司ヶ谷に刑場があったとき、罪人とその縁者が、この橋上で今生の別れを水に映して惜しんだ。

・中野⾧者の娘が嫁入りするとき、淀橋から身投げし、その亡骸がこの橋のたもとに浮かび上がったので、淀橋に対して、面影橋とした。

・姿見の橋(面影橋の別名)は、悪人が人をだました帰り道に、一人で帰ったことから、一緒に出かけた人の姿を見ることはない、という意味で、姿見ずの橋という。

中野⾧者とは、中野に伝わる伝承で、日ごろの行いが素晴らしい商人が仏さまに認められてお金持ちになったが、やがて悪事をはたらき天罰が下ったことから反省し、僧になった、というお話。この伝説内で、金銀を奪うため、金持ちと出かける際に使われたのが、“淀橋”。一方帰りに使う橋は、金持ちを始末し、商人一人しか通らなかったため“姿見ずの橋”と呼ばれることになったとのこと。新説が増えてしまった。

橋と呪われた人生、面影の由来

いくつか資料を調べ、いよいよ有力と思われる説に行き当たった。「新宿区の文化財 伝説、伝承」と「新宿の伝説と口碑」という 2 つの資料に、同じような内容が詳細に書かれていたのだ。

有力な説は、於戸姫が身投げの際に詠んだ詩、という説。

戦国時代、京から都落ちしてきた和田靭負(ゆきえ)という武士がいた。彼には一人娘・於戸姫(おとひめ)がおり、輝かんばかりに美しかった。多くの求婚者が現れ。中でも関(せき)という男が熱心だったのだが、靭負は求婚を断らせていた。金持ちと結婚させ、もう一度、都で暮らしたかったのだ。

そうこうするうちに関の想いは募り、強硬手段に移る。仲間数人と共に於戸姫を奪ってしまったのだ。しか

し、板橋の辺りにきて空が白んできても、奪った於戸姫は一向に起きそうになく、それどころかグッタリとしている。関は殺してしまったと勘違いし、恐ろしくなって於戸姫を川に捨てて逃げてしまった。これが於戸姫、一回目の不幸である。

まもなく、畑仕事にでていた杉山三郎左衛門(すぎやまさぶろうざえもん)が、草の上で倒れている於戸姫を発見、介抱する。姫は回復し、三郎左衛門夫婦にわが子のようにかわいがられた。しばらくのち、近くにすむ小川左衛門義治という人物が姫を気に入り、姫もこれを納得、共に暮らすこととなった。夫婦仲も良好で、姫のとって幸福な日々だったといわれている。

ところが小川の友人、村山三郎武範(むらやまさぶろうたけのり)が義治を訪れた際、姫の美貌に気が狂い、小川の留守を見計らって、姫の気を引こうとした。姫がこれを断ったため、村山は策をめぐらせ、小川を亡き者にすれば姫を自分のものにできると考えた。そしてある日、とうとう小川を刺し殺してしまったのである。

第二にして、於戸姫最大の不幸である。これを見た於戸姫は、哀しみ、激昂。なぎなたを手に取り、逃げる武範を追い見事、仇討に成功する。

しかし、姫の哀しみは癒えない。呆然とする心の中、「なぜこのような不幸が相次ぐのか」「どうしたらこの宿命から脱することができるのか」といった想いが走馬灯のように、姫の頭を駆け巡った。そうして、この不幸はすべて我が身から出たこと、と結論づけた。多少なりともわが身の美しさが仇となったこと、周囲を不幸にしたこと恥じ、自ら髪を切り家を出る決意をする。

田んぼ道、いつしか足は自分の育った神田川のほとりに向かい、川辺についてわが姿を水に映し、

変わりぬる姿を見よとや行く水に うつす鏡の影に恨めし

限りあれば月も今宵はいでにけり 今日見し人の今は亡き世に

と詠み、自身の宿命に涙を流し、今は亡き夫に想いをめぐらせ、川面に移る月影に身を投げ、夫の許に向かったとされる。里の人は於戸姫の心情を思いやり、姿見の橋と名をつけ、また面影橋ともいうようになった。

なんと哀しく、遣る瀬のない話なのだろう。歴史を辿ることは、ときに思いもしない事実に出くわすこともあるらしい。飾り気のない橋は、シンプルで主張しすぎることのない、いくつもの歴史を伝えるという、ただ一点のみを追求した、洗練された橋に見えてきた。

調べた周辺資料によると江戸時代、神田川周辺はホタル狩りの名所として知られていたらしい。その様子は京都の宇治ホタルに勝るものだといわれていたそうだ。田島橋の先で二筋の川が落ち合うあたりは「落合蛍」として知られたという。大正時代までは、橋の上で竹竿の先にササの葉をつけ、蛍狩りをする子どもたちの姿は日常的な光景だったとのこと。夏になると神田あたりから、神田川へ水遊びに大勢の人たちが歩いてきて、それはにぎわった、と 2017 年発行の「早稲田・わが町」に記載されている。泳ぐことのできるほど、きれいな川だったようだ。

夏。木製の立派な橋が架かる、蒸し暑い神田川。生い茂る草木の中に揺蕩う、無数の蛍火を思い浮かべた。たった 100 年前の景色だ。今では見る影もないその朧な燈が、於戸姫の元へ届いていてほしいと、切に思った。

消えてしまった記録に残る蛍、「あなたのことは忘れられていない」と、どうか姫に伝えてくれないだろうか。神田川にかかる、他愛のない橋。しかしその橋は、ある哀しい姫様の物語と橋にまつわる歴史の面影を、現代へと伝えてくれるものだった。(タカハシコウキ)

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