JIBUNマガジン

2021年09月号 vol.74

「ママ友」が始めて四半世紀。「谷根千」という地域雑誌がまちにもたらしたものは

2021年09月16日 00:42 by Takako-Oikawa

「谷根千(やねせん)」94冊、「空(KUU=くう)」93冊、「MITAMIYO!!」に「beople」、茗荷谷界隈の「パンとスイーツマップ」も。文京区内で発行された地域情報誌やマップを集めた「文京の地域情報誌展」が8月に開かれた。紙の情報誌がまちづくりに寄与してきたことが感じられる展示だった。

中でも、1984年から2009年まで、四半世紀もの間、台東区谷中、根津、千駄木と、周辺の情報を発信し続け、その略称がいまや地域の呼び名に定着してしまった「谷根千」は、歴史の重みを感じさせた。創刊号から編集に携わってきた山﨑範子さんとのオンライントークイベントで、「谷根千」が生まれたきっかけや、まちとのかかわりについて聞いた。

創刊は1984年10月15日。谷中・大円寺の菊まつりに合わせて発行した。山﨑さんと、のちに作家になる森まゆみさん、オルガニストの仰木ひろみさん、イラストレーターの鶴見禎子さんが創刊メンバーだ。「全員20代後半で、母親で働く女性たち。森さんとは保育園の親同士として知り合った」という。お迎えに行くのがいつも遅い山﨑さんと森さんは当時それぞれの勤め先で雑誌を作る仕事をしていた。子どものクラスも学年も違ったが、帰り道はよく仕事の話になった。「仕事楽しい?どうせ低賃金なら自分たちで作ろうか」。4月に知り合い、5月の遠足でそんな話になって、あれよあれよと10月には発行していたという。

「よそのことはわかるが隣に住んでいる人のことはわからないよね。自分たちが暮らしているところで面白いものを見つけたら、記録しておく。そんなことをやっていきたい、と」。当時話を聞いた人は明治生まれの人がおり、その人のおじいさん、おばあさんの話は、江戸時代の話になる。「江戸期の人からじかに話を聞いた方を取材できたのはおもしろかった」

まる25年、毎号テーマを決めて特集を組んだ。季刊誌だったので、特集についてひと月調べ、ひと月で製作、ひと月で配達して回るサイクルで、年に4回出した。取材手法は「知っていそうな人を探して、人の話を聞くのが一番。よみせ通りやへびみちの特集では、最初の家から最後の家までトントンとノックして、留守の家もあれば追い払われることもあるけれど、いつからお住まいですかとか聞いて回るのです」

林町、坂下、藍染、片町など旧町名で話す人が多く、そのまちの形成史もテーマになった。ものづくりをしているところが多いので、工場、生業など仕事の調査をした。銭湯は最初15軒あった。歩いて片っ端から聞いて回ると、1軒で2人から話を聞いたら30人になる。和菓子屋、酒屋、肉屋、いろんな業種をテーマにした。職人が多く、寺も多い。石屋、花屋などの職人さんにも聞いた。必然的に1号につき20~30人から話を聞くことになった。「そんなこと知らないのかって、1つ話を聞きに行くと2つ3つ知らないことを知らされるので、鼠算式に増えていく。あの人にきいてないの?と怒られたり」。テーマだけなら千号ぐらい作れるほどファイリングしていたという。

定価をつけて販売したが、応援するよと言ってくれた店が広告も出してくれた。本屋、酒屋、和菓子屋、銭湯など了解が得られたところに置いた。最終的に地域内330カ所で販売、ほかに定期購読者もいた。取材、製作と同じウエイトで配達集金が重労働だった。創刊当初は子どもをおぶって自転車で、子どもが大きくなると配達を手伝わせて総動員で330軒を回った。3カ月に1回、同じ道をくまなく回るので、どういう人が買い、どういう感想を言っていたかも知ることができた。「それが他のメディアと違う点かもしれないですね」。読者からの反響は大きく、1号出すたびに菓子箱いっぱいの手紙をもらった。これを調べてほしい、という手紙もあった。

雑誌を作っていたからできたこともある。第12号では不忍通りの再開発を特集した。バブル期、右翼も絡んで激しい地上げがあった。話を聞いてほしいという人もいた。地域をまとまらなくするやり口も証言から浮かび上がった。コミュニティを壊していく様子をまざまざと記録した。

旧安田楠雄邸(千駄木5丁目)の保存にもつながった。1986年、お宅には井戸がありますか?と尋ねたのが初めての訪問だった。「インターホンを押してから玄関に人が現れる時間がかかるんですよ。広い邸宅なので」。建築家やメンバーが足しげく通い、信頼関係ができた。当主が亡くなった時、なんとか残したいという相談があった。そこから1996年に「たてもの応援団」を有志で結成、残す手だてを探し、最終的には日本ナショナルトラストに寄贈された。築100年の建物と庭園、代々受け継がれた家具やカーテンも貴重で、ボランティアが一般公開を担い、イベントも開かれている。

2013年までよみせ通りにあったのこぎり屋根の町工場も、建物は壊されたが、今も「遺産」は保存されている。谷根千を始めたときから気になっていた建物で、建築科の学生らが活用できないか模索したが、解体が決まった。トラスと柱の一部をもらいうけ、建物解体の1年後、かつてあったリボン工場の資料などももらった。「何人かに調査してもらったり、私自身も仲間と論文を書いたり、そういうことでやっと今年3月、東京家政大学博物館に収蔵されることに決まったのです。博物館の館長が谷中のまちづくりにかかわっていた人で、つながりを感じました」

終刊したのは「単純にお金がなくなったから」と言うが、個人情報保護法の施行が、誤解もされた。話を聞くのが難しくなり、話が面白くなかったり大事なところの削除を求められたりし、モチベーションが下がったことも一因という。それと、売れなくなった。「一番売れたとき1万4千部出たのが、だんだん減って86号で6千部になった。熱心な方たちは定期購読代を先々まで送ってくれる。その人たちにお金が返せなくなっては大変だと。もう3年つくってやめましょう、と終わる時を決めました」。2007年の86号で2009年にやめることにした。「終わりを決めたらすごく楽しくなった。ゴールが見えているのは大事だなと」。最後は原稿が多く、終刊は93号のはずが1週間後に94号を出した。93号は広告も多く、読者が個人で出してくれた広告もあった。

終刊後も膨大な資料が残された。千駄木5丁目に大正期の蔵があり、活用の相談を受けていた。そこで「記憶の蔵」と名付け、いくつかのグループや個人にも家賃をシェアしてもらい、スペース貸しやイベントなどをしながら資料を保管し、最終的に自由に見てもらえるように整理している。コロナで今は開催していないが、「Ⅾ坂シネマ」という映画の上映会をやってきた。もう30年、文京区所蔵の16ミリフィルムを端から観ているのだが、500本近くしか観ていない。誰かが映した地域の映像なども観る。

山﨑さんにとって谷根千は「ほぼ生活のすべてだった。小売店というか、お豆腐屋さんに近いかな。朝起きてお豆腐をつくる、それを売り切って、配達もして、次の準備をして寝て、起きたときから仕事ができる」。25年間続ける、というのがすごいことだった。「こんな雑誌があってもいい、という人がいたので始まり、もういい、という人が増えたのでやめるということになったのかな。雑誌以外のメディアが増えたしね」

現在は「谷根千ねっと」で発信を続け、バックナンバーも販売している。(写真の一部と図版は山﨑さん提供)

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